オーマイガー東京

オーマイガー東京というブログを24歳東京暮らし新卒2年目のエンジニアが書いています。

パンとバスと2度目のハツコイを深読みしてみた part1

2018年2月17日公開の"パンとバスと2度目のハツコイ"
 

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目次だけでもネタバレになる気がするので、目次は下の方に書いてあります。
また鑑賞されてない方は、本編をご覧になってから再度読んでいただけたらと思ったり思わなかったり。
 
公式サイトにあるイントロダクションは以下。

「私をずっと好きでいてもらえる自信もないし、ずっと好きでいられる自信もない」と、独自の結婚観を持ち、パン屋で働く市井ふみ(深川麻衣)が、中学時代の“初恋”の相手・湯浅たもつ(山下健二郎)とある日偶然再会したところから物語は始まる。プロポーズされたものの、結婚に踏ん切りがつかず元彼とサヨナラしたふみと、別れた奥さんのことを今でも想い続けているたもつが織りなす、モヤモヤしながらキュンとする“モヤキュン”ラブストーリー。「初恋相手は、今でも相変わらず魅力的だぁぁぁぁあ!!」”恋愛こじらせ女子“の面倒な恋が動き出す!?「結婚」をテーマに、コミカルで人間交差点的な今泉力哉ワールド全開の恋愛群像劇が繰り広げられる。

 
私は、この映画を試写会、初日舞台挨拶と2回鑑賞させていただきました。
1度目はワクワクしながら、ありとあらゆる深川さんの表情、仕草に心を奪われながら。
また、日常の中で登場人物からこぼされる言葉(メッセージ)に夢中になりながら鑑賞しました。
映画のテンポがほんとに心地のいい、生きていきたいそれだったので終始居心地がよかったことを覚えています。
 
その1度目の鑑賞後、帰り道にて会社の同僚と話しながら、
あのシーンってどういう意味だったんだろうね?とか、
こんな伏線仕掛けられてたよね!とか話しているうちに、もっと深く理解してみたいという動機が芽生えたことから
2度目のパンとバスと2度目のハツコイは描写についての深読みしながら見ることにしました。
 
その2回目の鑑賞を経て、私が深読みした内容をここにまとめ、
これを読んでくださった方がまた違う目線からの深読みを投稿などしてくれたらな。などと期待をしながら
文をしたためているところです。意見等絶賛募集中でございます。
 
では、深読みを開始しますので、
まだ観覧されてない方は回れ右。映画館へGO!調布に行くとくまパンが買えるよ!
また、ここまで書くのは無粋なのではと思う自分もいたりするので
無粋ってなに?って感じの人が軽く読んでくれるくらいがちょうどいいのではないかと思うわけです。
これは、自己満足。そう、これは自己満足。
 
深読み持論あり目次
 
・物語にある"終わり"という大きなテーマ(恋の終わり、絵の終わり、絵描きの終わり)
・その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら、に続く言葉
・作中で登場する子どもが今回のキーパーソン
・本作に置ける洗濯機とは何を表しているのか?
・コインランドリーの少年は夢なのか
・alone again (naturally)の意味
・ふみの緑内障の設定は何を描写したかったのか
・ふみがデートで来ていた服は
・さとみという名前の設定と同性愛に関する主張
・助手席で寝ないでくれてありがとう発言
・あいこさん吉高由里子さんに似てる(これは深読みではない笑)
 
深読み持論悩み中目次
 
・さとみと再会して幸せだと聞いた後にふみが涙した理由
・燃えた家の甘い香り事件と、2度のどうでもいいよ発言について
 
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深読み持論ありのテーマ
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・物語にある"終わり"という大きなテーマ(恋の終わり、絵の終わり、絵描きの終わり)

今作の中には、"終わり"というテーマが"ふみ"の人生観を通して終始語られているように思う。
まず私の考えとして、"ふみ"は明確に終わりを感じることができるのだと考える。
また、"ふみ"は恋というものもいつかは終わると考えているのだと推察する。
それゆえに、結婚という永遠の愛を誓う行為に対して積極的になることができないのだ。
 
では、そう考察するに至る理由について述べていこうと想う。
 
まずは"ふみ"が絵の終わりについて述べているシーンから考えてみよう。
"にこ"が"ふみ"について以下のように相談する。
「絵には終わりがない。どこでお姉ちゃんは絵を止めるの?
 
その問いに対して"ふみ"は以下のように答える。
「絵を描いていると、ああ終わるなあってわかる瞬間がある。終わる瞬間までわからないんだけど、終わる時にふとわかる。」
 
監督は、"ふみ"の恋愛の終わりに対しての捉え方を、このシーンにおける絵を通じて表現したのではないだろうか?
 
恋愛も終わる瞬間が来るまではわからないのだけど、
終わる瞬間は訪れるし、"ふみ"はその終わることに気づくことが出来るのだ。
 
そして、そのシーンではまたこのようにも述べている
「後からあの時が終わりだったのかと気づくことがある。そんな時は、自分でも驚くほど中途半端に終わらせたらいい。だって、自分の理想の終わりはもう来ないのだから」
 
こちらの台詞から、終わりに気付いた時には、もう終わらせてしまった方がいいという"ふみ"の人生観が見える。
だらだらと結婚生活を続けることも出来るかもしれない。
でも、"ふみ"は終わりに気付いた時、やはり別れを選ぶのだろうと私は思う。
 
上記のことから、
"ふみ"は終わりに気づくことが出来るし、終わりに気付いた時にはだらだら続けるのではなく、
きっぱり終わらせることが出来る人間性であると推察することが出来る。
 
では、次に絵描きについての終わりについてのシーンついて考察したい。
ここでもまた、"にこ"から"ふみ"への質問から始まる
「どうしてお姉ちゃんは絵をやめたの?」
 
これに対して、"ふみ"は以下のように答える。
「私にしか書けない絵なんてないってことに気付いた。ちっぽけな存在だと気付いた。」
 
こちらの台詞は冒頭に登場する、プロポーズのシーンの台詞とリンクしている
「今まで付き合ってきた人と私はどう違うの?今まで付き合ってきた人とは別れたのに、私とは別れないってなんで言えるの?」
 
ふみの中の考えは、つまりこういうことだ。
私という存在は絶対的な存在ではない。
私である必要がないのだから、私がすること。私が出来ること。について代わり(別れ)が存在する。
何故なら、他の人と私は何も違わないのだから。
 
私という存在は絶対的な存在ではないから別れ(終わり)が存在する。
そして、ふみはその終わりに気づくことが出来、終わりに気付いた時にはだらだら続けるのではなくきっぱり終わらせることが出来る人間性であるとここまでで推察することが出来る。
(また、これは次の"その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら、に続く言葉"に関連するのだが、絵描きの終わりについて述べるシーンから、絵を描く行為に対して"ふみ"は憧れを持っていたことが推察することが出来る。こちらについては後ほど)
 
この章をまとめると
 
絵の終わりによって、ふみの終わりに対する気づきと、終わらせることについて表現し
絵描きの終わりによって、ふみがどうして終わりが来ることを肯定しているのかについて表現し、
全体として、ふみは、恋について終わりが来るものだと思っているし、終わりがきたら終わらせるものだと考えている。
このふみの思考性こそが今作の根底にあるテーマであるし、社会に対して訴えたい内容なのだと私は深読みする。
 
そして、さらにここに"ふみ"と"たもつ"の人間性を加味するとさらに深読みすることが出来る。
"ふみ"と"たもつ"は対照的な立場を持っている。
それは、絶対なんてないという立場の"ふみ"と、絶対的な存在であるアイコを想う"たもつ"という立場である。
これは、洗車シーンでの会話から推察することが出来る。
 
"ふみ"は「私は人から好かれるとひいちゃう。」という。
その言葉の背景には、先ほど述べた絶対的存在ではない自分への好意が客観的に薄っぺらいものに感じてしまうことから来るものではないかと推察する(ここの推察は論理怪しい)
 
それに対して、
"たもつ"は、「わかんない。だって、好きだから」と、理屈を超えた絶対的存在(唯一物)としてのアイコを信じている。
 
ここの対比構造は、現代社会のマジョリティ(たもつ)と、
それに対するアンチテーゼとしての"ふみ"の構造と捉えることもできそうだ。
 
だから、"ふみ"は疑問を抱くのだ。社会に対して。
「どうして、ずっと一人の人を好きでいられるの?(好きでいられると想うの?結婚できるの?)」と。 
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 ・その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら、に続く言葉
 

続いて、本作の一番刺さるフレーズとして大ラスに登場する
「その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら . . .」
について考えていこうと想う。
 
作品が始まる前に深川さんが、このようなことを言っていた。
「見る方の価値観によって、全然違う感想になるかと思います。」
 
なるほど。なるほど。などと思いながら
まあでも、そのタイミングでは深川さんかわいいなとして思っていなかった私。
ですが、劇中でいろんなことを問題提起され考えている最後の最後に
このフレーズが出てきて頭を抱えた。
 
無意識に答えのようなものを求めていた。
劇中での問題提起に対して、主人公が出した答えを受け入れる体制が整っていた。
そんな中での、このフレーズである。

 

深川さんそういうことかと。
この先の”ふみ”と”たもつ”の関係は、あなたの価値観に則って生きていきますよ。
と、そういうことなのだ。

 

この締めのフレーズによって、映画の解釈への広がりが大幅に広がったことはいうまでもない。監督にしてやられた形だ。
個人的に、あだち充さんのH2のような無限の未来を思わせる終わり方だなとも思った。
私はこういう終わり方が好きなのである。

 
とまあ、前置きが長くなったが、
本作は、問題提起の先の回答を、助走をつけた形で観客に委ねている。
なので、ここから私なりの回答を述べていきたいと想う。

 

始めます。

 

まず、これを考えるにあたって重要なセリフが2つある。

一つが、”さとみ”が”たもつ”に向けて届けた以下の発言だ。
「好きになった人を付き合わずに、嫌いになれると想う?なれないよ。だって、嫌いになる程その人のことを知らないのだから」

 

もう一つが、山頂にて”ふみ”が”たもつ”に言った以下の発言。
「なんでたもつがずっと一人の人を好きでいられるかわからないって言ったでしょ?わかったよ。片思いだからだよ。子供がいようが、結婚してようが関係ない。ずっと片思いなんだよ」

 

この2つの発言は、本作において重要な役割をはたしている。
まず、”さとみ”の発言について推察していこう。

 

これは、魅力の本質について本作が提示している重大な台詞だ。
付き合いということは、向き合うと捉えてもいいかもしれない。
相手と向き合うことなく、遠くから憧れているだけで嫌いになることができるのか?という問いに対して、明確にできないと述べている。

また、向き合うということは、魅力の本質に近づく行為だということもできそうである。
つまり、相手と向き合うことなく、魅力の本質に近づくことはできないとそう述べているわけである。
ここは本作に珍しく断言しているポイントであることを覚えておきたい。

 

では、次に"ふみ"の発言について推察していこう。
この発言からは、以下のことを読み取ることができそうだ。
人間において、片思いであるという状態は、向き合っていることにはならないということ。
また、形式的な事象によって、人間は向き合っている状態を作ることができないということだ。
ここは、"ふみ"が本作で唯一声を荒げるシーンであり、こちらもまた珍しく断定しているポイントでもある。
重要なシーンであると想像することは容易だ。

 

この2つの発言をまとめると
・人間は向き合うことなく魅力の本質に近づくことはできない
・片思いである状態は、どんなに形式的な事象で掘りを埋めても、向き合うことにはならない
つまり、両思いになることで初めて、魅力の本質に近づくことができるということだ。

 

また、ここで第1章の時に述べた以下の内容が顔を出して来る。

(また、これは次の"その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら、に続く言葉"に関連するのだが、絵描きの終わりについて述べるシーンから、絵を描く行為に対して"ふみ"は憧れを持っていたことが推察することが出来る。こちらについては後ほど)

“ふみ”は当初、絵を描く行為に対して憧れを持っていたと推察できる。
その憧れとは、”自分にしか描けない何か”がこの世界に存在するという憧れだ。
この憧れをいただいていた時、”ふみ”は本当に楽しく絵を描いていたのだろう。

 

それは、”にこ”の「どうしてお姉ちゃんは絵をやめたの?」という質問に対して、以下のように答えることから導くことができる。

「つまらなくなったからかな?」

 

裏返して考えれば、"ふみ"は楽しかったから絵を描いていたことがわかる。
そして、楽しくなくなった理由が第1章で述べた、自分にしか描けないものがないことに気付いたというものだ。

 

つまり、"ふみ"は、自分にしか描けないものがあるという憧れを持っており、それゆえに楽しく絵を描くことができていた。
しかし、"ふみ"は絵に真剣に向き合うことで、ある時終わりに気がついたのだ。自分にしか描けないものなどない。
こりゃあ、ダメだなー。。。と

そして、同時に"ふみ"は、"ふみ"にとっての絵を描くという行為の魅力の本質を知った。
"ふみ"にとって絵を描くという行為の魅力の本質は、自分にしか描けないものがあるかもしれないという希望だったのだ。
その本質を知った中、自分にしか描けないものなどないと悟り、憧れることができなくなった"ふみ"は絵を描くことをやめた。
と、このように推察することができると思う。

 

この経験があるからこそ、

 

「お願いだから好きにならないで」
「(形式的に付き合っても)いいよ。好きにならないなら」

 

という発言が"ふみ"の言葉から出て来ることになる。
ふみは絵を描くという行為を通じて、魅力の本質に迫り、別れるという経験を身をもってしているのだ。
また、"ふみ"が付き合ったり、結婚したりしていないから一緒にいることができるってあるのかな?と
最初の不倫のシーンでパン屋の同僚が話してくれた考えに興味を持っていることからも
人と向き合うことで、別れがやって来ることに敏感に感じていることも推察できそうである。
(このタイミングではまだふみは、形式的な事象によって向き合うことも可能なのかもしれないと考えているが、たもつの話を聞いていく中で、形式的な事象によって必ずしも向き合うことができるわけではないと学んでいく)

 

だいぶ長くなってきたので、まとめよう。
・本質を知らない状態での憧れに終わりは来ない
・形式によらず、人は両思いになることで初めて、魅力の本質に近づくことができる
・魅力の本質に近づくことで発生する別れが存在する

 

これらが本作で"ふみ"が考えてきたロジックである。
これを踏まえて、「その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら . . .」という発言を見てみると
この発言がいかに切なく、真剣で、チャレンジングであるかがわかると思う。

 

では、私なりに言葉を埋めて見たいと思う

 

「その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら . . .」
「結婚も悪くないかもしれない。そんなことがもしもあるのなら . . . 」

 

私は、多少の希望を抱きながらも、
あくまで"ふみ"は人は孤独であることが自然な状態であるという立場をとるように今のところ思う。
こちらについては、"本作に置ける洗濯機とは何を表しているのか?"と"コインランドリーの少年は夢なのか"と"alone again (naturally)の意味"の時にまた個別に述べて見たいと思う。

 

以上、第2章でした。

 

part2に続く

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